静かな崩壊の序章
その企業に初めて足を踏み入れた日、私は何の疑念も抱いていなかった。
約7年で230人規模にまで成長したIT企業。都内のビルの一角にある本社は、
開放的なガラス張りのミーティングルームと観葉植物が程よく配置され、
まるで未来のベンチャー映画のワンシーンのようだった。社員たちは若く、
どこか自信に満ちた笑顔をたたえ、廊下ですれ違うたびに「お疲れさまです」と軽快に声をかけてきた。
しえんグループとしてこの会社に関わるのは、今回が初めてだ。
目的は明確。上場を見据えたN-2期に入るこのタイミングで、
労務の健全性やコンプライアンス体制を一通り確認し、必要があれば改善提案を行う。
それが私たちの仕事だ。
だがそのとき、私はまだ知らなかった。この企業の“心臓”に、
誰も手をつけられない病巣が潜んでいたことを。
「完璧な」執行役員 その名は、Y。
CIO、最高情報責任者。まだ30代半ば。
入社からわずか2年で執行役員にまで登り詰めた異例の人物だった。
最初のオリエンテーションで彼と顔を合わせたとき、私はその空気の違いにすぐ気づいた。
スーツの着こなし、姿勢、言葉遣い──すべてが洗練されており、
同席していた他の経営陣が無意識に彼に視線を向ける様子からも、社内における影響力の大きさがうかがえた。
「プロジェクトの完遂率は100%に近いです。
特に昨年の決済系アプリ開発は、大手企業にも導入されています」
人事担当がそう語ると、Y氏はただ微笑んだだけだった。あくまで謙虚。
だが、それがかえって不気味に感じたのは──後からの話だ。
静かすぎる職場
本格的な労務監査は翌週から始まった。
まず違和感を覚えたのは、メンタルヘルス関連の記録が一件もないことだった。
社員230人。ベンチャー特有のスピード感ある開発体制。残業時間はやや長め。
にもかかわらず、産業医面談も、ストレスチェック等の各種記録も、何もない。
「特に問題は起きていないんです。うちは“明るい社風”が売りですから」
担当者はそう言ったが、私は引っかかった。
明るさとは、本当に声の大きさや笑顔の数で測れるものなのか?
データに浮かぶ“痕跡”
監査を進める中で、私はY氏が関与した複数のプロジェクトに共通点を見つけた。
いずれも、外注や協業企業としてある“特定の法人名”が記録されていた。
そして奇妙なことに、そのプロジェクトが終わってから半年ほど経つと、
より精度が高く・価格も安い類似サービスが市場に出回るのだった。
「これは偶然ですか?」
そう聞くには、証拠が弱すぎる。しかし、妙な胸騒ぎが消えなかった。
消された過去
退職者リストにも不審な点があった。
Y氏が入社した時期から、過去のプロジェクトリーダーや古参社員が次々と辞めていたのだ。
中には開発部門の中核を担っていた人物もいる。
さらに、彼らの退職に関する記録がほとんど残っていない。
送別会の写真もなければ、送信されたFarewellメールのアーカイブもなかった。
空白。まるで、何者かがその“痕跡”を意図的に消し去ったようだった。
はじまりの違和感
労務監査の現場では、数字と制度、そして社員の声を組み合わせながら、組織の“温度”を測る。
だがこの会社では、温度が測れなかった。
いや、温度を「測らせない」空気が、確かに存在していた。
そして私は、この時点で直感したのだ。
「この会社には、深い“沈黙”がある」
それは、社内のどこかで起きているはずの小さな叫び声が、何者かの手によって葬られているということ。
誰も見たくないその現実を、私はこの後、少しずつ掘り起こしていくことになる──。
次回へ続く…
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